私のなかの原・物語
記憶とは、曖昧なものだ。
一週間前の昼食に何を食べたかを言い当てられる人間は、恐らくは
ほとんどいないであろう。
今朝方に見た夢でさえおぼろげであり、日々のどうでもいいのだが
やらなければいけない些事に忙殺されているうちに、一切は忘却の
彼方に押し流されてしまうのである。だがしかし、それらの忘却の
断片は、私の内部に降り積もり、やがて思わぬ逆襲を企てているの
かもしれない。
死の刹那にみるという走馬灯のような人生の断片、
私はそのときに何をみるのであろうか?
子供の頃に読んで、その内容だけが何故か記憶に刻まれ、
その原典がわからなくなった物語の話をしようか。
道浦母都子さんにも、ゆうすげの会の際に渡したエッセイもどき。
読み返すと恥ずかしい限りの稚拙さだけど、そのままここに公開。
誰か~、知りませんか~。
------------------------------
『天使と悪魔』
〈欠落〉は時に記憶をより強固なものにする。〈モノ〉にせよ、
〈コト〉や〈ヒト〉にせよ、手にし得たものよりも捉え損ねたもの
の方が、滓のように傷のように、記憶に沈潜し或いは刻み込まれ、
より深く強く〈私〉を構成する見えざる要素となっていくことが
多いのではなかろうか。
少年の頃であろうか。私は、以下に紹介する物語を確かに読んだの
だが、それが一体誰の作品なのか、タイトルさえも思い出すことが
できないのである。ただ、物語の記憶ばかりが鮮やかに残されてい
るのであるが、それも歳月により変質・風化し、脚色が加わってい
るのは否めないこと。あたかも私の血肉を分けた兄弟であるかのよ
うに、不即不離の物語が私の中で呼吸し、成長を続けているのであ
る。大学生の私は、その原典を捜すためにグリム童話集を、アンデ
ルセン童話集、O・ヘンリー短編集などをひもといてみたのだが遂
には見つけ出せなかった。その後も所属していた現代詩の同人誌に
エッセイを書いて、そこに「捜索願」めいた一文を載せたり、これ
はと思う博識の徒に尋ねたりしたが、答えを得ることが叶わないま
ま齢を重ねるに至っている。
脆弱な記憶能力のせいか、多くの読書経験は記憶として蓄積されて
いないのに、この物語だけはいつまでも心に引っかかり、私を捉え
て離さないのである。あたかも全ての書籍が背表紙ばかりを見せて
いる図書館の中、この物語だけが読みさしのままに記憶のテーブル
にそっと置かれてあるかのように・・・。
こんな話である。
------------------------------
一人の貧しい絵描きの青年がいた。ある時、教会を飾る壁画を描く
画家を探すために公募コンクールがあり、青年も一枚の絵を出品す
ることにした。彼は天使の絵を描くために、それに相応しいモデル
を探し歩いた。とある貧民街を歩いていて、それはそれは愛くるし
く天真爛漫そのものの幼子を見出し、その親にお願いしてその子を
モデルに天使の絵を完成させ出品した。その絵は堂々一等となり、
その後は画家として輝かしい人生を歩むこととなった。
幾歳月が流れ、大画家となった彼のもとに教会から大作を描く依頼
があった。彼の構想の中で、悪魔が重要な鍵を握っていた。悪魔を
完全なものとして描くために、この世のものとは思えない極悪非道
の相を持つモデルが必要になった。彼は街外れにある監獄を訪ねて
みた。そこで身の毛のよだつような人相の悪い、モデルに打ってつ
けの囚人を見出した。何人もの罪もない人間を殺めたというその男
は死刑執行を待つばかり、荒んだ濁った眼で画家を睨みつけていた。
やがて彼をモデルに悪魔はその姿を完璧に画布に定着することがで
き、大作は完成し、その絵は市民の賞賛を浴び、国の隅々からもそ
の絵を観るために多くの人々が訪れるようになり、ついに国王から
は勲章を戴くこととなった。
彼は、その絵を描かせてくれた囚人に御礼を言いたくて、監獄を訪
ねた。彼は、ぼろぼろになった一冊のデッサン帖を携えていた。そ
こには彼の画家としての出発点であった天使のデッサンが一葉、含
まれていた。囚人は面倒くさそうにデッサン帖を手に取った。それ
でも花や動物のデッサンを囚人は熱心に眺めていた。しばらく無言
で、濁った眼でデッサン帖をめくっていた囚人の同じ眼から突然、
大粒の涙がこぼれ落ちた。画家は、ただただ驚いて囚人を見つめた
るばかりであった。嗚咽がいつまでも続くなか、切れ切れに囚人が
口を開いた。
「これは俺です。今でも憶えています。御礼にとあなたは飴玉を三
つくれたことも憶えています。忘れもしません。その晩です。盗賊
がやって来て親父とお袋が殺されたのは。悲しみよりも憎しみが勝
っていたんでさ。いつか復讐を、と念じながら俺自身が盗賊と同じ
ような悪さをはたらくようになり今はこうして死を待つ身です。」
囚人は、天使のデッサンを見つめながら涙を落としていた。その瞳
には最早悪魔は消え失せ、壮年ながらまるで老人のように小さな存
在としか見えなかった。画家は大いに驚き、天使と悪魔を交互に見
比べるほかなかった。
------------------------------
一人の人間に内在する天使と悪魔の物語、という部分はこの梗概で
伝わっているものと思う。
私はいつの日にか、この物語の原典に出会えるのだろうか。答えは
思いのほか近くに、〈青い鳥〉のようにすぐそばで見出される瞬間
を待っているのかもしれない。
寂しさはたとえばピアスなき耳の穿たれしその欠落に似て
これは、欠落感を詠った私の拙い歌である。欠落感や喪失感は、可
能であるならそれを埋めたいと願ってやまない主観的な傷なのであ
るが、あたかもジグソーパズルのピースを当てはめていくように、
完成させることが必ずしも幸福であるとは限らないだろう。何故な
ら、ピースをはめていく行為あるいは状態こそが幸福の姿であり、
生きて在るということであり、完成はすなわち忘却そのものかもし
れないのであるから。
多くの欠落によって成り立っている〈私〉を眼に見える形にする手
段として、私は短歌という定型詩をいつしか選んでいた。それはあ
るいは詩であっても、小説やエッセイであってもよかったのかもし
れない。しかし、あの頃、壊れかけていた私にはあまり時間がなか
ったのである。あの頃がいつの頃であったのか、その特定はここで
はしない。
とても稚拙な比喩で表現するならば、私が手にしていたのは金魚す
くいの網なのであった。上手にすくわなければすぐに破れてしまう
和紙の張られた網である。私のなかの、他者からは見えないところ
にある悲しみとか憤りという感情や想いは、短歌という表現形式に
おいても、すくい取ろうとすると網は忽ち破れてしまった。まして
や詩や小説は金魚ではなく錦鯉であったから、唯一手にし得たすく
い網ではどうにもならなかったのである。
いつの日にか、私の原風景とも言うべき「天使と悪魔」の物語の典
拠へと辿り着き、そうして短歌という定型詩で私という一回性の実
在を捉え得る瞬間が訪れることを夢に見つつ、今日もまたこの欠落
を抱いた〈私〉と不器用に向き合い、生きにくい〈世界〉のただな
かで戸惑いつつ生きている。手には破れた金魚すくいの網を持って
―――。
座るべきベンチは雨に濡れて光り傘の陰にて花散らすわれ
(了)
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88926/4536380
この記事へのトラックバック一覧です: 私のなかの原・物語:

コメント